北前船

北前船

江戸時代には車も電車もありません。 重い荷物を遠くまで運んでいたのは船でした。

江戸時代ですから船といってもエンジンはありません。小さい船なら人力でも漕ぐこともできますが、大きな船を人が漕ぐのは大変です。 そこで風を受けて進む帆船が使われました。 北前船(きたまえぶね)というのをご存知でしょうか? 江戸時代に物流の中核を担った船のことです。

写真にあるのはその北前船の代表的な1000石積みできる千石船(せんごくぶね)を復元したものです。 全長32m、全幅8.5m、荷物を150t積むことができました。

1石とは体積の単位で一升瓶100本分を表しました。一升瓶100本に米を詰めるとおよそ150Kgほどと換算されます。

司馬遼太郎の「菜の花の沖」は、北前船で財を成した高田屋嘉兵衛が主人公の小説です。

北前船は、商人の町だった大阪から瀬戸内海を経由して、日本海を進んで山形県の酒田や青森、更に北海道の松前まで結んでいました。

風が頼りの船なので風が無かったり、風が強すぎたりすると船を出せません。 一気に遠くまで進めないので、近くの港に寄港して、更に次の港まで進むといった具合でゆっくりと進むしかありません。 一般に大阪から目的地である酒田までを早いもので2~3月ほどかけていました。夏季の台風や、冬季の荒れた日本海では船が出せません。 よって一年に少ないものでは一往復していたようです。

半年もかけて日本の半分くらいしか行けなくて役に立ったの?

経済効果

目的地まで時間がかかる上に、港を転々として進むしかありません。しかし、これが大きな経済効果を生みました。 出発地で船主は立ち寄る港(町)で売れそうな商品を見極めて積み込みます。 船荷に空きができればその町の特産品などを仕入れ、その先の港で売るといった現代の商社のようなことを繰り返していました。 北前船が往復すると、現在の価値で数億円の売り上げがあったといいます。

大阪から出港する際には、流行の着物やアクセサリーなど都会でしか手に入らないものを積み、帰りには米や絹、蝋燭に北海道の海産物などを積んで大阪などで売るといったことをしていました。

船が立ち寄る港の特産品が、各地に流通していったのはいうまでもありません。流通したのは、物品だけではありません。各地の文化や情報も一緒に運んでいました。 いまでいうネットのSNSのような役割を持っていました。

北前船が立ち寄る港には金に余力のある船員が多数宿泊をしますから、今でいう繁華街が賑わいます。 繁華街が賑わえば、それを支えるための経済活動が活発になるので町も人も全体が潤います。 また荷を運ぶ船も航海で痛みますから修理や、更新も必要になります。 このように大きな経済効果があったと考えられています。

青森では

青森で北前船が立ち寄った港は、日本海側の深浦、鯵ヶ沢、十三湊、陸奥湾の蟹田や、野辺地、下北のむつなどでした。 青森市は明治維新以後に新たに作られた町なので当時は無かったといっても差し支えないでしょう。

常夜灯

江戸時代は灯台もありませんし、GPSも無線もありません。 そこで写真にあるような灯篭に灯りをつけて目印にしました。 野辺地にある常夜灯は、ここに北前船が来航していた証です。

復元された北前船もこの常夜灯が置かれた常夜灯広場に設置されています。 広場には小さいですが産直品を販売するお店があって、地元のホタテなどの海産物などが格安で買えます。

江戸時代、青森は江戸や京都から遠く離れたところでしたが、北前船の寄港地は賑わっており、京都、大阪など各地の文化も伝わりました。 例えば、鯵ヶ沢や、野辺地、むつには、京都の祇園祭を彷彿とさせる煌びやかな山車を使う夏祭りが現在も行われています。

物流の拠点が経済力を持って人が集まるという構図はいつの時代も変わりません。 明治維新以後、鉄道が敷かれ物流の中心が船から鉄道に変わると賑わう町は変わっていきました。 船で賑わった町は次第に衰退していきます。

マコトの青森が好き